トイレや風呂場などの水辺の多い場所には悪い気が溜まるとよく聞く。
それらの場は湿気が強く、建物内の他の場所に比べ気温が低い場合が多い。
特にこの時期、早朝のトイレなんて吐き出す息が白くなるほどだ。
しかしそんな所でも今の土井和樹(中村総合病院院内学級担任教師)にとっては花畑のように輝かしく見える。
高鳴った鼓動は心身を温め、そんな幸福感に和樹は耳に当てた携帯電話を握り締めた。
「うん、今夜七時に青山ね。楽しみだなー」
元々笑ったような顔つきの和樹が、さらに溢れんばかりの笑みを浮かべたのも無理はない。
付き合って半年になる恋人――恭子との久々のデートだ。
というのも和樹が教師という時間に余裕のある職業なのに対し、恭子は銀行勤め。
毎日多忙な恭子とは中々予定が合わず、2人きりで合う機会は普通のカップルに比べて少ない。
しかしそれでも和樹は満足していた。こうして会えることが嬉しい――。
たまにしか会えないからこそ、2人でいる時がより愛しく思える。
耳から電話を話し、携帯電話を閉じる。鏡に映る自分の顔は馬鹿正直で、余計に可笑しく思えた。
『土井和樹先生、至急会議室までお願いします』
名前を呼ばれ、ハッと我に返る。鏡を見てニヤニヤしていた自分が恥ずかしい。
なんだろう?なにかやらかした覚えは無いし、看護婦に手を出した覚えも無い。
原因はわからないけれどとにかく行かなくては――。
「はいは〜い、今行きま〜す」
赤くなった頬を一回叩き、和樹は会議室へと向かった。




なにかあったのかな――。普段能天気な和樹でさえ身構えるくらい、会議室周辺の空気は重い。
途中すれ違った日頃陽気な看護婦達ですらこちらを窺うようにチラリと目を向けたあと、なにも言わずに通り過ぎて言った。
会議室の扉を目の前にして思わず唾を飲む。扉の小さな隙間から重苦しい空気が滲み出ているのが手に取るようにわかった。
よし――。和樹は覚悟を決めるとノックをし、扉に手をかけた。
「失礼します。土井です」
室内に入り、ぎこちない動きで引き戸を閉める。そして振り返った和樹の目には、予想だにしない光景が映された。
「土井君、こちら、政府の方だ」
院長の低いしわがれた声が室内に響いたが、あまり和樹の耳には入らない。
この異様な光景を理解しようと和樹の脳は必死に働いたが、当然結論には至らなかった。
今院長に"政府の方"と紹介された人物が立ち上がり、こちらへ向かってお辞儀をする。
「初めまして、土井さん」
和樹の耳に届いた声は非常に幼い。それもそのはずだ。
胸に桃色のバッジをつけたその人物は、まだ12歳程度の少年。華奢な体と丸い瞳はまるで女の子のようだ。
敵意の無い笑顔を浮かべたその少年から、何か得体の知れないものを和樹は感じ取った。
政府から来た?こんな幼い子が?なんなんだ、一体――。
その和樹の心を見透かしたかのように、少年の口は動いた。
「申し遅れました。この度、プログラムの担当教官を勤めさせていただく神本隆之介です」
プログラム――担当教官――?
神本と名乗ったこの少年の言葉が、何か異国の呪文のように聞えた。
「それって一体どういう――」
それだけ言うのがやっとだった和樹に対し、神本はあどけない笑みを浮かべている。
プログラム――?いや、まさかそんなはずは無い。だって――。
なにか嫌なものが脳裏を走る。神本はその和樹の問いに答えようと口を開けた。
反射的に和樹は自分の耳を覆いそうになった。ダメだ、聞いちゃダメだ。言うな、言わないでくれ――。

「土井先生のクラスは、この度プログラムに選ばれました」

その神本の言葉と殆ど同時に和樹は立ち上がっていた。脳内を今聞いたばかりの言葉がぐるぐると回っている。
嘘だ嘘だ嘘だ。だって院内学級だぞ?皆学校だってバラバラだし、そもそも正式なクラスでは無いじゃないか――。
「あの、大丈夫ですか?すみません、こんなこと急に言ってしまって」
「なんで…?」
これまでに無いくらい強く拳を握り締め、必死に動揺を抑える。今浮かんだ多数の疑問、 まずはそれを聞かなければ。
「うちは、院内学級であって正式なクラスではありません。それに中三だけじゃないし――」
「すみません、それについては詳しいことは言ってはいけないんです。
ただ、土井先生の持っている学級内の、ある生徒の実際のクラスがプログラムに選ばれたんです。
けど色々と事情があって、そのある生徒が今勉強しているこのクラスに、対象が変更されました。
本来なら30人以上もの生徒が参加するはずでしたが、この変更によりそれがたった5人に減ったんです。
5人でしたよね?土井先生が教えられている院内学級の人数――」
ショックのあまり、崩れるように椅子に座る。
院内学級がプログラムの対象に――?色々な理由――?馬鹿げてる。それに――
「たった5人、ですか」
「あ、すみません!僕、失礼なこと言っちゃって。5人でも、大切な生徒さんですもんね。
あの、それで、プログラムの承諾をいただきたいんです。まぁ、もう決定してしまっていることなんですけど――」
本当に申し訳ないという神本の表情も、ただ黙って俯く院長も、静かな会議室もすべてが幻のように思えた。
視線を目の前のデスクに戻す。茶色い木目をじっと見つめ一呼吸置く。そして和樹は口を開いた。
「ごめんなさい、嫌です」
その発言を受けてすぐに顔を上げたのは院長だった。
「何言ってるんだ!拒否するってことがどういういことだかわかってるのか!?」
ゆっくりと頷いた。わかってる。全て承知のことだった。
「だったら何で!君には家族だって、恋人だっているんだろう!?こんなところでつまらない意地を張るなんて――」
すっと立ち上がった和樹に、院長は口をつぐんだ。神本は当然和樹の答えを快よく思わないらしく、哀しげな表情を浮かべている。
「たった5人のために命張れなくてどうするんですか。そりゃあ…恭子のことは心残りです。
けどここで大人しく引き下がるような人間が、これから人を守っていけるわけないですって。
大丈夫です、僕は、後悔しません。僕の決断は、間違っていません」
血がでるくらい強く拳を握り締め、和樹は言った。震えそうになる足も汗ばんだ手も、全て非現実的に思える。
ぎゅっと唇を噛み締め、神本を睨みつけてやった。最後の、小さな抵抗。
「…わかりました。残念です、わかってもらえなくて」
神本の手が、彼の着るスーツの胸元へ入る。そこから出てきたのは、小さな手に不釣りあいな大きな拳銃。
その幼い顔に悲しみの色を浮かべ、こちらへと銃口を向けた。
大丈夫、間違ってない。僕は間違っていない――
「土井先生、ごめんなさい」
小さな会議室に、大きな銃声が響き渡った。思わず体を振るわせた院長と、白い蛍光灯が視界に入る。
意識を失う寸前和樹が思い浮かべたのは、今夜七時に青山で待つ恭子の姿だった。





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